「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネ様」馬車の前に立つ2人にリカルドが笑顔で声をかける。彼の背後には20人近い使用人達も見送りに出ていた。「あ、ああ。行ってくる」物々しい見送りに戸惑いながらルシアンは返事をした。次に、隣に立つイレーネに視線を移す。「では、行こうか? イレーネ」「はい。ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をすると、2人は馬車に乗り込んだ。「リカルド、外出している間留守を頼むぞ」ルシアンは窓から顔をのぞかせると、リカルドに声をかけた。「はい。お任せ下さい、ルシアン様」リカルドはニコリと笑みを浮かべ、次にルシアンに近づくと小声で囁く。「どうぞお仕事の方はお気になさらずに、ごゆっくりしてきて下さい。くれぐれも早くお帰りいただかなくて結構ですからね?」「あ、ああ……分かった。で、では行ってくる」まるで、早く帰ってきては許さないと言わんばかりのリカルド。その口調にたじろぎながらもルシアンは頷くのだった……。**「ルシアン様、ところで本日は何処へ行かれるのですか?」馬車が走り始めるとすぐにイレーネが声をかけてきた。「そうだな……とりあえず、町に出てブティックを数件周って服を購入しよう。祖父は身なりに煩い方だ。場をわきまえた服装でいなければネチネチと嫌味を言ってくるかもしれないからな。余分に買い揃えておけば間違いないだろう」少々大袈裟な言い方をするルシアン。(本当は、そこまで口煩い祖父では無いのだがな……イレーネにドレスを買わせるには大袈裟に言った方が良いだろう。そうでなければ彼女のことだ。きっと遠慮するに違いないからな)すると、案の定イレーネはルシアンの言葉を真に受けた。「この間10着以上もドレスを購入したばかりです。なので新たに購入するのは何だか勿体ない気も致しますが……当主様が服装に細かい方でしたら致し方ないかもしれませんね。何しろ私の役割はルシアン様が次の当主となれるようにお飾り妻を演じきることなのですから」「あ、ああ……ま、まぁそういうことになるな」きっぱりと「お飾り妻」と言い切るイレーネに苦笑しながらもルシアンは頷く。「よし、それではまず最初は前回君が訪れた『マダム・ヴィクトリア』の店に行くことにしよう」「はい、ルシアン様」――4時間後ガラガラと走る馬車の中で、イレーネとルシアンは会話していた
「そういえば買い物に気を取られていてお昼のことを忘れていたな。もう14時を回っている」ルシアンは腕時計を見た。「まぁ、14時を過ぎていたのですね? 買い物が楽しくて、すっかり時間を忘れていましたわ」「そうか? そんなに楽しかったのか?」イレーネの言葉にまんざらでもなさそうにルシアンが頷く。「はい、『コルト』に住んでいた頃は洋品店の窓から店内を覗くだけでしたから。実際に買い物をすることなど滅多にありませんでしたので」「あ、ああ……何だ。そっちのほうか……」落胆した声でボソリとつぶやくルシアン。「え? 今何かおっしゃいましたか?」「いや、何でもない。それでは少し遅くなってしまったが、何処かで食事でもしていかないか? この通りには様々な店が立ち並んでいるからな」「はい、そうですね」そこで2人は馬車から降りると、通りを歩いてみることにした――**「ルシアン様、このお店はいかがですか? なかなかの盛況ぶりですよ?」イレーネが駅前の噴水広場の正面にある店の前で足を止めた。「……あ。この店は……」ルシアンは店をじっと見つめる。「どうかしましたか? このお店のこと御存知なのですか?」「ああ……知っている。ここは開業してまだ5年目程の料理屋なのだが、元王宮料理人が開いた店で貴族達の間で人気の店なんだ」「まぁ。そんなに有名なお店だったのですか」「そうだ。……以前は俺も良くこの店に通っていたのだが……」そこでルシアンは言葉を切る。「どうかされましたか? ルシアン様」「い、いや。何でもない」首を振るルシアン。(そうだ、あれからもう4年も経過しているんだ。……多分大丈夫だろう)ルシアンは頭の中を整理すると、再びイレーネに声をかけた。「それでは……この店にしてみるか?」「はい、そうしましょう」笑顔で答えるイレーネ。そこで店の中へ入ると、すぐに笑顔のウェイターが現れて2人を窓際のボックス席へ案内をした。「イレーネ、どれでも遠慮せずに好きな料理を頼むといい」メニューをじっと見つめているイレーネにルシアンは声をかけた。「ありがとうございます。まあ……どれも美味しそう」(随分楽しそうだな……)楽しそうにメニューを選んでいるイレーネを見ていると、ルシアンはまるでこれが本当のデートのように思えてきた。「う〜ん……これだけ沢山のお料理
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い
午前11時半――コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。「町に着いたよ、イレーネ」そして手を差し伸べた。「ありがとう」ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。「まぁ、ここは……」「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」「あら……分かっちゃった?」肩をすくめるイレーネ。イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」少しだけムッとした表情を見せるルノー。「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」「……分かった。行って来いよ」イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――****「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。「はい、そうです」「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは
「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ
女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋
約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
イレーネは交番の椅子に座り、青年警察官が馬を連れて戻ってくるのをじっと待っていた。そこへ……「どうもすみません、お待たせいたしました」扉が開き、声をかけられたイレーネは振り向いた。外には一頭の栗毛色の馬の姿がある。「いえ、そんなに待ってはおりませんので」「そうですか? では早速行きましょうか?」青年警察官は『巡回中』と書かれた立て札をカウンターに立てると笑顔を見せる。「あの……でも、本当によろしいのですか? お仕事中なのに……」申し訳なくて、イレーネは伏し目がちに尋ねる。「ええ、お気になさらないで下さい。困っている人を助けるのも警察の仕事ですからね」「はい。それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いいえ、気にしないで下さい」そして二人は連れ立って交番を出た。「では出発しましょう」イレーネの背後から馬にまたがった警察官が声をかけてくる。「は、はい。よ、よろしくお願い……します……」生まれて初めて馬の背に乗るイレーネが声を震わせながら返事をする。「あの? どうかしましたか?」「いえ……お恥ずかしい話ですが、馬の背中に乗るのが初めてなので……こんなに視界が高くなるなんて思いもしませんでした」男爵令嬢でありながら、落ちぶれた貴族。当然イレーネは乗馬など嗜んだことすらない。「そうだったのですか? それなら大丈夫です。後ろから支えてあげますから安心して乗って下さい。逆に怖がると、馬にまでその恐怖心が伝わってしまいますよ」「え? それは本当ですか? なら平常心を保たなければなりませんね」イレーネは背筋を伸ばすと、青年警察官は笑った。「アハハハ……なかなか面白い方ですね。では行きましょう」そして、二人を乗せた馬は常歩で町中を歩き始めた。****「ここが、この町で有名な美術館ですよ。週末になると大勢の人で賑わいます。駅からは真っすぐ行けば辿り着くので分かりやすいです。その向かい側にある大きな建物は洋品店です。有名なデザイナーがいるそうですよ」青年警察官はまるでガイドをするかのように、イレーネに町の案内をしている。「あんなに立派な美術館や洋品店があるなんて、さすが『デリア』の町は大きいですね」始めは馬を怖がっていたイレーネだったが、徐々に楽しい気分になってきた。今は町並みの光景を楽しむまでになっている。「
「そういえば買い物に気を取られていてお昼のことを忘れていたな。もう14時を回っている」ルシアンは腕時計を見た。「まぁ、14時を過ぎていたのですね? 買い物が楽しくて、すっかり時間を忘れていましたわ」「そうか? そんなに楽しかったのか?」イレーネの言葉にまんざらでもなさそうにルシアンが頷く。「はい、『コルト』に住んでいた頃は洋品店の窓から店内を覗くだけでしたから。実際に買い物をすることなど滅多にありませんでしたので」「あ、ああ……何だ。そっちのほうか……」落胆した声でボソリとつぶやくルシアン。「え? 今何かおっしゃいましたか?」「いや、何でもない。それでは少し遅くなってしまったが、何処かで食事でもしていかないか? この通りには様々な店が立ち並んでいるからな」「はい、そうですね」そこで2人は馬車から降りると、通りを歩いてみることにした――**「ルシアン様、このお店はいかがですか? なかなかの盛況ぶりですよ?」イレーネが駅前の噴水広場の正面にある店の前で足を止めた。「……あ。この店は……」ルシアンは店をじっと見つめる。「どうかしましたか? このお店のこと御存知なのですか?」「ああ……知っている。ここは開業してまだ5年目程の料理屋なのだが、元王宮料理人が開いた店で貴族達の間で人気の店なんだ」「まぁ。そんなに有名なお店だったのですか」「そうだ。……以前は俺も良くこの店に通っていたのだが……」そこでルシアンは言葉を切る。「どうかされましたか? ルシアン様」「い、いや。何でもない」首を振るルシアン。(そうだ、あれからもう4年も経過しているんだ。……多分大丈夫だろう)ルシアンは頭の中を整理すると、再びイレーネに声をかけた。「それでは……この店にしてみるか?」「はい、そうしましょう」笑顔で答えるイレーネ。そこで店の中へ入ると、すぐに笑顔のウェイターが現れて2人を窓際のボックス席へ案内をした。「イレーネ、どれでも遠慮せずに好きな料理を頼むといい」メニューをじっと見つめているイレーネにルシアンは声をかけた。「ありがとうございます。まあ……どれも美味しそう」(随分楽しそうだな……)楽しそうにメニューを選んでいるイレーネを見ていると、ルシアンはまるでこれが本当のデートのように思えてきた。「う〜ん……これだけ沢山のお料理
「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネ様」馬車の前に立つ2人にリカルドが笑顔で声をかける。彼の背後には20人近い使用人達も見送りに出ていた。「あ、ああ。行ってくる」物々しい見送りに戸惑いながらルシアンは返事をした。次に、隣に立つイレーネに視線を移す。「では、行こうか? イレーネ」「はい。ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をすると、2人は馬車に乗り込んだ。「リカルド、外出している間留守を頼むぞ」ルシアンは窓から顔をのぞかせると、リカルドに声をかけた。「はい。お任せ下さい、ルシアン様」リカルドはニコリと笑みを浮かべ、次にルシアンに近づくと小声で囁く。「どうぞお仕事の方はお気になさらずに、ごゆっくりしてきて下さい。くれぐれも早くお帰りいただかなくて結構ですからね?」「あ、ああ……分かった。で、では行ってくる」まるで、早く帰ってきては許さないと言わんばかりのリカルド。その口調にたじろぎながらもルシアンは頷くのだった……。**「ルシアン様、ところで本日は何処へ行かれるのですか?」馬車が走り始めるとすぐにイレーネが声をかけてきた。「そうだな……とりあえず、町に出てブティックを数件周って服を購入しよう。祖父は身なりに煩い方だ。場をわきまえた服装でいなければネチネチと嫌味を言ってくるかもしれないからな。余分に買い揃えておけば間違いないだろう」少々大袈裟な言い方をするルシアン。(本当は、そこまで口煩い祖父では無いのだがな……イレーネにドレスを買わせるには大袈裟に言った方が良いだろう。そうでなければ彼女のことだ。きっと遠慮するに違いないからな)すると、案の定イレーネはルシアンの言葉を真に受けた。「この間10着以上もドレスを購入したばかりです。なので新たに購入するのは何だか勿体ない気も致しますが……当主様が服装に細かい方でしたら致し方ないかもしれませんね。何しろ私の役割はルシアン様が次の当主となれるようにお飾り妻を演じきることなのですから」「あ、ああ……ま、まぁそういうことになるな」きっぱりと「お飾り妻」と言い切るイレーネに苦笑しながらもルシアンは頷く。「よし、それではまず最初は前回君が訪れた『マダム・ヴィクトリア』の店に行くことにしよう」「はい、ルシアン様」――4時間後ガラガラと走る馬車の中で、イレーネとルシアンは会話していた
翌日の朝食後――「イレーネ様、お出掛けにはこちらのドレスがよろしいかと思います」本日の専属メイドがウキウキしながらイレーネにドレスをあてがう。そのドレスは落ち着いた色合いのブラウンのデイ・ドレスだった。勿論、このドレスもイレーネが自らマダム・ヴィクトリアの店で購入したドレスであある。「あら、あなたもこのドレスが気に入ったの? ブラウンだったからどうかと思ったけれど……私たち、気があいそうね」ニコニコと笑みを浮かべるイレーネ。「ほ、本当ですか? イレーネ様!」メイド……リズは、美しく逞しいイレーネに密かに憧れていた。その相手から気が合いそうと言われ、喜んだのは言うまでもない。「ええ。年も見たところ私と変わりなさそうだし……名前を教えて頂けるかしら?」「はい、私の名前はリズと申します。私がこのドレスを選んだのには理由があります。何故ならこのドレスはルシアン様の髪色と同じ色だからです。初デートとなれば、やはりこのドレスしかありません!」きっぱりと言い切るリズ。「え……? デート?」デートと言う言葉に首を傾げるイレーネ。「はい、そうです。だって、初めてでは無いですか。お二人だけで外出なんて」(私とルシアン様は単に現当主様に会う為の準備を整える為に買い物に出掛けるのだけど……?)しかし、目の前でキラキラと目を輝かせているリズを前に本当のことを言う必要も無いだろうとイレーネは判断した。「そうね、確かに初めてのデートだもの。気合をいれないといけないわね。それではルシアン様をお待たせするわけにはいかないので、準備をするわ」「お手伝いさせて下さい!」こうして、イレーネはリズの手を借りながら外出準備を始めた――****「ルシアン様」ルシアンのネクタイをしめながら、リカルドが声をかけた。「何だ?」「本日の外出の目的はイレーネさんのドレスを買いに行くのですよね?」「そうだ、何故今更そんなことを尋ねる?」「いえ、少し確認したいことがありますので」「何だ? 確認したいこととは」鏡の前でネクタイを確認しながら返事をするルシアン。「ドレスを購入された後はどうされるおつもりですか?」「どうするって……そのまま、真っすぐ帰宅するつもりだが?」「何ですって? そのまま帰られるおつもりだったのですか? デートだと言うのにですか? 他に何処にもよ
その日の夕食の後――「本当に大したお方ですね、イレーネさんは」書斎に紅茶を淹れに来たリカルドがルシアンと話をしている。「何が大したお方だ。ブリジット嬢と友達になったと聞かされて俺がどれだけ驚いたと思っている。全く……これでは心臓がいくらあっても足りなくなりそうだ」しかめた顔で紅茶を飲むルシアン。「で、ですが……まさかイレーネさんが、ルシアン様だけでなくブリジット様まで懐柔してしまうとは……クックックッ……」リカルドは肩を震わせ、左手で顔を覆い隠している。「リカルド……お前、面白がっているだろう? 大体、懐柔とは何だ? 俺は別にイレーネに懐柔されてなどいないが?」「そう、そこですよ。ルシアン様」「何だ? そことは?」「イレーネさんのことをそのように呼ぶことですよ。今までどの令嬢全てにおいても敬称つきで呼ばれていたではありませんか? ……あの方を除いては」「……」その言葉に黙り込んでしまうルシアン。(しまった。少し余計なことまで口にしてしまったかもしれない)黙り込んでしまったルシアンを見て、リカルドは慌てたように話題を変えた。「そ、それにしても私たちがほんの3日留守にしていただけなのに、イレーネさんは既にこの屋敷で自分の地位を築き上げていたようですね。使用人たちが口を揃えて言っておりましたよ? イレーネ様はルシアン様の不在中、立派な女主人を務めておりましたと」「……まぁ、彼女はあんな細い身体なにのに、肝は据わっているからな」「ええ。ですからきっと現当主様はイレーネさんのことを気に入ると思いますよ」「だといいがな。だが、気に入られなくても構うものか。どうせ彼女は1年限りの契約妻なのだから」(そうだ、一刻も早くマイスター家当主に認めてもらうためにもイレーネを祖父に会わせなくては……)そして再びルシアンは紅茶を口にした――****――翌朝、朝食の席「え? 来週、ルシアン様のお祖父様に会いに行くのですか?」フォークを手にしていたイレーネが目を見開く。「ああ、そうなる。祖父に俺を次期当主に認めてもらうには結婚相手である君を引き合わせなくては話にならないからな。祖父は気難しい男だ。不安なこともあるかもしれないが……」「御安心下さい、ルシアン様。何も不安に思うことはありませんわ」「は? い、いや。俺が言ってるのは……」その言
――3日後ルシアンとリカルドはマイスター家の帰路に着いていた。「それにしても、以外でしたね。現当主様がすんなりとルシアン様の婚約者の存在をお認めになるとは」馬車の中でリカルドが楽しげに話している。「結局、祖父は早く俺を結婚させたかっただけなんだよ。……現に、すぐに婚約者を連れてくるように言ったじゃないか。虚言だと疑っているのかもしれない」不貞腐れた様子で窓の外を眺めるルシアン。「う〜ん……そうでしょうか……イレーネさんの身上書もお持ちしたのに……写真もつければ信用して頂けたのでしょうか?」「だが写真は現像に時間がかかる。どうせ、遅かれ早かれ祖父に紹介しなければならないんだ。とりあえず、祖父はイレーネを認めたということだ。彼女にそのことを報告し、今度は2人で『ヴァルト』に行く」すると、その言葉にリカルドが目を輝かせる。「2人きりで『ヴァルト』に行くということですね? まるで婚前旅行みたいで素敵ですね〜最近は結婚前のカップルが2人だけで旅行をするというのが流行らしく……え? あ、あの〜……」ルシアンが恨めしい目つきで自分を睨んでいることに気づいたリカルドの言葉が尻すぼみになる。「リカルド……」ハァとため息をつくルシアン。「は、はい。何でしょうか?」「お前は一体何を考えているんだ? 俺と彼女はあくまで1年だけ夫婦を演じるとい契約を結んだだけの関係。それを何が婚前旅行だ。……全く、能天気だな。こちらはイレーネが祖父の前で何か失態をおかしたりしないか、今から不安でたまらないというのに……」「……そんなに心配でしたら、早々にイレーネさんにはお断りして次の方を探せばよろしかったのでは?」「……」恐る恐るリカルドは口にするも、ルシアンは無言を通す。(やはり……本当はイレーネさんのことを心の何処かで気に入られているのではないだろうか?)しかし、リカルドの考えとは裏腹にルシアンは別のことを考えていた。(彼女は貴族令嬢ながら、今まで散々貧しい生活に苦労してきた人生を歩んできた。1年間位、俺の妻として何不自由ない暮らしを与えてやりたい。何しろ、この結婚で俺は彼女の人生を狂わせてしまうことになるかもしれないのだから)勿論、リカルドはルシアンの心の内も知らず……勝手に妄想を広げていくのだった。****「お帰りなさいませ、ルシアン様」ルシアンが屋
「もう……帰るわ。お茶もお菓子もいただいたし」これ以上話をしても埒が明かないと判断したブリジットは立ち上がった。「まぁ、もうお帰りになるのですか? もしよろしければ、私の部屋に寄っていかれませんか?」「はぁ!? な、何で私があなたの部屋に行かなければいけないのよ!」キッとイレーネを睨みつける。「いえ、もしよろしければ私と友達になっていただければと思いましたので」「冗談じゃないわよ! どうして私があなたと友達になれるっていうのよ! ふざけないでちょうだい!」怒りを爆発させるブリジットに、イレーネはハッと気づく。(そうだったわ、私は1年間のお飾り妻。来年にはここを去っているのだから、お友達になってもらうのは図々しいお願い。第一、それではブリジット様に失礼だわ)「これは大変出過ぎたことを口にしてしまいました。どうぞ、今の話はお忘れ下さい。何しろこの町に出てきたばかりですので、親しい友人もおりませんでした。そこでつい同世代のブリジット様とお友達になりたく思い、図々しいお願いをしてしまいました。申し訳ございません」そして深々と頭を下げる。「え……? ちょ、ちょっと……」あまりにも突然態度が変わったことでブリジットは焦った。イレーネの心の内も知らずに。(もしかして、私……強く言いすぎてしまったかしら!?)「もし、今度何処かでお会いしても、もう二度と今の様な図々しい願い事はいたしません。大変申し訳ございませんでした」「な、何もそこまで謝らなくたっていいわよ! 別に気にしていないから!」気が強いブリジットではあるが、彼女はそれほど性悪な女性ではなかったのだ。「本当ですか!?」途端にイレーネの顔に笑みが浮かぶ。「そ、そうね……ど、どうしても友達になってもらいたいって言うなら……月に1度位は会ってあげてもいいわ。私だって、何もそこまで了見の狭い女じゃないし」「え? で、でも……よろしいのですか?」「だからいいって言ってるでしょう!? きょ、今日は部屋に寄ることは出来ないけど……気が向けば招待状位……送ってあげるわよ!」「ありがとうございます! ブリジット様!」イレーネは嬉しさのあまり、立ち上がるとブリジットの手を両手でギュッと握りしめた。「え!? きゃあ! な、何するのよ!」慌てて手を振り払うブリジット。「あ……申し訳ございません。
「ちょ、ちょっとどういうことよ! ルシアン様の婚約者だなんて……! そんな話、初耳よ!」ブリジットは興奮のあまり、立ち上がる。「ええ、そうですよね? 何しろつい最近、私とルシアン様の婚約が決まったばかりなのですから」そのとき――「あ、あの……お茶とお茶菓子をお持ちいたしました」メイドのアナがワゴンに2人分のとびきりのお茶と焼菓子を乗せて応接室に現れた。「まぁ、アナ。どうもありがとう」ニコニコしながら声をかけるイレーネ。「い、いえ。では失礼いたします」アナはいそいそと2人の側に行くと、紅茶と焼菓子をテーブルに乗せ……チラリとブリジットを見た。「何よ?」ジロリと睨むブリジット。「い、いえ。何でもありません! し、失礼致しました!」ペコリと頭を下げると、アナは逃げるように応接室を後にした。「まぁ……美味しそうなお茶にケーキですね。ブリジット様、一緒に頂きましょう」「……は?」唖然とするブリジットにイレーネは声をかけると、早速カップに口をつけると笑みを浮かべた。「……まぁ。香りも素敵だし、味も最高だわ」「ちょっと待ちなさい!! あなたねぇ……よ、よくもこんな状態でお茶なんか飲めるわね!」ブリジットは興奮のあまり、髪の毛同様頬を赤く染める。「ブリジット様、このお茶本当に美味しいですよ? 温かいうちに飲まれたほうがよろしいかと思います」しかし、イレーネはブリジットの興奮する様子に動じることもなくお茶を勧める。「……なら頂くわ」(そうね。お茶を飲んで少し冷静になりましょう)ブリジットはおとなしく座ると、早速紅茶を口にした。それはとてもフルーティーな香りで、飲みやすい紅茶だった。「……確かに美味しいわ」「ですよね? それなら焼き菓子も頂きましょう……まぁ! とっても美味しいわ! この紅茶と本当によく合います。ささ、ブリジット様もどうぞお召し上がりになってみて下さい」イレーネがあまりにも美味しそうに焼菓子を口にするので、ブリジットも食べてみようと思った。ただし、強気な態度は崩さずに。「ふ、ふん。食べ物なんかで私がつられるとでも思っているの? こう見えても私は色々な美味しいスイーツを食べ歩いているのだから」そしてフォークで焼き菓子を口に運び……。「! 美味しいじゃない……」「ですよね? お茶も焼き菓子も最高に美味しいです
イレーネは上機嫌で型紙を当てて生地を裁断していた。「フフフ……こんなに素敵な布地にハサミを入れるなんて初めてだわ。今までは貰い物か安物の生地で服を作っていたから」 その時。――コンコン扉がノックされた。「あら? 誰かしら?」テーブルにハサミを置くと、イレーネは扉を開けに向かった。「お待たせしました。あら? あなたは確か……」扉を開けると、目の前にはメイドのアナが立っている。「はい、イレーネ様。私は本日、イレーネ様のメイドを務めさせていただきますアナと申します。よろしくお願いします!」元気よく挨拶をするアナ。「アナさんね? はじめまして。こちらこそ、これからよろしくね。でも今のところ、手伝ってもらうことは何も無いので大丈夫よ。何かあるときは呼ばせていただくわね?」笑顔でイレーネは扉を閉めようとしたので、アナは慌てた。「あ! ちょ、ちょっとイレーネ様! お待ち下さい!」「え? 何かしら?」扉をしめかけたイレーネは首を傾げた。「実は、ルシアン様に会いにお客様がいらしています。ですが、ただいまルシアン様は不在ですよね?」「ええ、そうね」「それで、代わりにイレーネ様がお相手して頂けないでしょうか? ルシアン様が不在の今、このお屋敷の代理主人はイレーネ様を置いて他にいらっしゃいませんので」アナの言葉にイレーネは少し考えた。(私はルシアン様と1年間の雇用関係を結んだだけの関係。けれど、それでも仮とは言え妻になるわけだし……)「分かりました、そういうことでしたらお客様のお相手をさせていただきます」イレーネはにっこり笑みを浮かべる。「本当ですか!? ありがとうございます! お客様は居間でお待ちになっております」「あまりお待たせするのはいけないわね。ではすぐに案内してもらえる?」「はい! イレーネ様!」「それで、どなたがいらしたのかしら?」イレーネは廊下に出ると、尋ねた。「はい。その方は……」アナはブリジットの名を口にした――****「……全く、いつまでこの屋敷の人たちは待たせるのかしら。今日はリカルド氏もいないみたいだし……あら? 美味しいお茶ね」ブリジットがティーカップに口を付けた直後……。「お待たせ致しました、ブリジット様」イレーネが居間に現れた。「え? あなたは誰?」突然現れた見知らぬ女性に、ブリジット
「ブ、ブリジット様。ほ、本日はどのような御用向きでこちらにいらっしゃったのでしょうか?」本日、ドアマンを勤めるフットマンがビクビクしながら作り笑いを浮かべる。「どのようなですって? そんなことは決まっているじゃない。ルシアン様に会いに来たのよ」きつい目をますます吊り上げるブリジット。「で、ですがルシアン様は本日から出張で不在なのですが……」「そんな嘘、通用するとでも思っているの? 今日こそ会ってもらうまで絶対に帰らないわよ! そんなことよりいつまで客をエントランスに立たせておくつもり? 早く部屋に通しなさい!」我儘伯爵令嬢、ブリジットは強気な態度を崩さない。「か、かしこまりました……」弱気なフットマンは心の中で泣きながら、しかたなくブリジットを応接間に案内することにしたのだった――****「何故、ブリジット様を居間に通してしまったんだ!?」リカルド不在の間、筆頭執事を努めることになった第二執事ハンスの声が詰め所に響き渡る。「そ、そんなことを言われても、相手はあのブリジット様ですよ? 断れるはずないじゃないですか!」半泣きになるフットマン。「全く……! 一体どうすればいいんだ? あの様子ではテコでも動かないだろうな……」事前にブリジットがいる部屋の様子を確認していたハンスは困ったように腕を組む。「それにしても、何故ブリジット様はルシアン様に会いにいらしたのかしら? もうイレーネ様という婚約者がいるのに……」メイド長がため息をつく。「それだ!」ハンスがパチンと指を鳴らす。「何がそれなんですか?」別のフットマンが尋ねる。「イレーネ様だよ。ルシアン様がいない今、あの方がこの屋敷の主人と考えてもおかしくないだろう? おまけに相手はルシアン様に想いを寄せているブリジット様だ。この際、イレーネ様に対応していただくのが一番じゃないか?」「なるほど! 言われてみればそうですね!」半泣きだったフットマンが手を叩く。「でも……大丈夫なのかしら……あの方は時々、大胆な行動を取られるから……」メイド長の顔に不安げな表情が浮かぶ。「だから、なおさらいいんじゃないですか。この際、イレーネ様がブリジット様にはっきり告げればいいんですよ。『ルシアン様は私の婚約者なので、もうまとわりつくのは金輪際、やめていただけませんか?』という具合に」妙に演